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私達は憲法によって言論の自由が守られているので、

食や健康等の問題を主張する事ができます。

 

 

 

 

元々憲法改正賛成派だった人の解説です。

 

 

 

 

谷本議員と一緒に飛行機を降ろされたもう一人の人物・高橋清隆氏について

 

 

 

谷本議員らがノーマスクで強制降機! 釧路空港のエアドゥ機、「憲法違反を公然と行う航空各社への行政指導を国交省に求める」

 

 

一緒に飛行機を降ろされた反ジャーナリスト高橋清隆氏による、谷本誠一議員のインタビュー動画です。

 

 

 

 

 

身近な人が被害に合った時の為に

とりあえずブックマークをお願いします。

 

 

 

 

 

 

タグ:野菜
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野菜や果物に含まれている栄養の変化を「数値」で比較してみたところ、確実に減っていました。

 

 

 

栄養が激減した野菜や果物、昔と現代の数値を比較してみた

 

 

 

 

しかし、「数値」は意図的に改竄される事があるので、

 

 

 

 

一応、別の視点からも、今と昔の野菜は栄養にどれほど変化があったのか...を分析してみることにします。

 

 

 

 

それは「味」「調理に与える影響」です。

 

 

 

 

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日本のリンゴやメロンを美味しいと感じるのは勘違いだった

 

 

 

「味」や「調理に与える影響」は、食材を語る上で重要な要素です。

 

 

 

 

 

ただし、料理が得意ではない私がそんな事を言っても説得力がありません。

 

 

 

 

そこで、パティシエの弓田享氏が、食材の栄養と味の関係について詳しく説明されているので、一部を紹介します。

 

 

 

『失われし食と日本人の尊厳 荒廃した日本の食と闘う鬼才パティシエが追い求めた「真実のおいしさ」/ 著者:弓田享』より引用

 

 

◎りんご

 

 

とてつもない大きさ。そして噛めば薄ら甘いだけの、香りも味もない水がほとばしり出て粗い繊維が残ります。

 

 

 

霜降り牛肉とまったく同じです(61ページ参照)。

 

 

 

正常なりんごは固めのもの、柔らかめのものも、すべてサラサラとしたきめの細かい崩れ方をします。線維がしっかりとつまっているからです。

 

 

 

日本のリンゴでも、私が子供の頃は滑らかな崩れ方でした。

 

 

 

フランスのものは今もそうです。

 

 

 

そして、しっかりと繊維の詰ったりんごは、果汁の香りは豊かで深く、切れ目のない深い甘みが恵みの秋を口中に知らせます。なんともいえない自然の季節を感じます。

 

 

でも今の日本のリンゴは何なのでしょう。図体だけは大きくて、木の根っこのようなガリガリの歯触り、無味乾燥、それしか表現が見つかりません。

 

 

まさに異常さの極みの果実なのです。

 

 

(中略)

 

 

そして年間30種類以上、異常なほどの量の農薬が、りんごの木を直接傷めつけます。

 

 

同時に畑の土を汚染し、土地の微生物群は壊滅的な状態となります。

 

 

 

微生物の正常な食物連鎖が消滅したためにミネラルを吸収できず、木は内からも傷みます。

 

 

その結果、正常な細胞分裂ができず、すかすかの繊維と薄っぺらな甘さの、栄養素の極めて乏しい木の根っこのような歯触りのりんごができてしまいます。

 

 

(47~48p)

 

 

 

 

 

次はマスクメロンです。

 

 

 

◎マスクメロン

 

 

あまりにも高価で異常ともいえる味のマスクメロン。

 

 

 

1個の鉢植えに1本の弦を伸ばし、1個のマスクメロンを作り上げる。これほど非生産的な栽培法はありません。

 

 

 

自然の摂理を無視することによって作られた、日本が世界に誇るというおろかさの極みの超集約農業の成果です。

 

 

 

自然の摂理に逆らって作り上げられたものに、豊かな栄養素などあるはずがありません。

 

 

これらのものを食べるごとに、私達の細胞もこれらの異常な産物の細胞と同じ状態に近づいていきます。

 

 

 

ただ糖度を上げるためだけのきわめて幅の狭いミネラルの肥料しか与えられていません。

 

 

 

舌に触れればまさに果肉が水のように崩れる、そしてにがみの混ざった不自然な甘さ、これはおいしさではありません。

 

 

水分をギリギリためておくだけの密度が極めて低く粗い繊維、これは植物の生理に反した栽培によって、果肉そのものが今まさに自壊しようとしている状態なのです。

 

 

(49p)

 

 

 

 

果物が好きな人や、育てている人にとっては面白くない意見でしょう。

 

 

 

 

でも、怒らずに冷静に読んでほしいのです。

 

 

 

 

私は昔、ケーキ屋に半年ほど勤めていたことがあるのですが、その店のシェフも食材をあちこちから取り寄せ、「あれが上手い」、「これは大したことない」...と、スタッフとよく語り合っていました。

 

 

 

 

こだわっているケーキ屋として地元では有名だったのですが、弓田氏のように「細胞レベル、植物が育つ背景を含めて考察している」...と思える発言をシェフの口から聞いた事はありませんでした。

 

 

 

 

 

プロであっても、ここまで味の違いを感じ取れる人は少ないという事でしょう。

 

 

 

 

正直怖いと思います。ほとんどの人は、異常な状態を「おいしい」と勘違いしているわけですから。

 

 

 

 

そして、商品は、需要のある物が作られます。食品も例外ではありません。

 

 

 

 

「舌がおかしくなった人」が増えれば、その人達の需要に応える為におかしな商品が開発される...悪循環です。

 

 

 

 

以前テレビで、スイーツのように甘いトマトやさつまいもが新種として紹介されていました。

 

 

 

 

生産者がこのように異常に糖度を高くするのも、それを望む消費者がいるからだ...と考えると恐ろしいです。

 

 

 

 

だからこそ、「正常な感覚を持った人」は貴重な存在なのです。

 

 

 

このような人が増えなければ、みんなの健康が損なわれることになります。

 

 

 

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日本の産物の特徴

 

 

 

弓田氏によると、日本の産物には以下のような特徴があるそうです。

 

 

 

《日本のこれらの産物に共通する希薄な味わいと、ゴリゴリザラザラの歯触り》

 

 

自然の摂理に逆らって作り上げられたものには、共通の味と歯触りがあります。

 

 

とても幅の狭い偏ったミネラルしか与えられていないので、細胞の健全な成長と働きは失われ、いずれも本来のものとはかけ離れた組織がずたずたのものができます。

 

 

肉も果物もザラザラの繊維と水のような味です。

 

 

そしてキャベツやかぶなどの野菜にも木薄な匂い、味、そしてガリガリの歯触りがあります。

 

 

本当に望ましい条件で栽培された野菜には小気味よく嬉しい歯触りがあります。

 

 

おいしいキャベツはシャキッ、パリッです。

 

 

おいしい人参はかむと軽いパリンという歯触りがあります。

 

 

白菜の身の厚いところは一瞬歯がキュンとしめつけられ、そしてはずみのあるサクッサクッが続きます。

 

 

ミネラルを不十分にしか吸収できない繊維の粗い野菜はどれも固いゴリゴリかガリガリの歯切れの悪さが共通です。

 

 

ミネラルを十分に吸収して、よい条件で育ったおいしいメロンや桃などは果肉の繊維は細く、とても緻密に詰まり滑らかな舌触りがあります。

 

 

食べていて小さなざらつきを感じ、おまけに歯に太い繊維がつまるなんてことは決してありません。

 

 

でも今のメロンや桃は、繊維が粗くザラザラの舌触りで、嫌なことに果肉のすじが歯の間によく詰まります。

 

 

私の祖父が作った水蜜桃は本当に滑らかそのものでした。ザラついた繊維を感じるなんてことはありませんでした。

 

 

(50~51p)

 

 

 

残念ながら、私はこのように感じた事はありません。

 

 

 

 

親やお爺ちゃん、お婆ちゃんが「昔の野菜は美味しかった」...と言っているのを聞いた事は何度もあります。

 

 

 

 

しかし、その時は、「今ほど食のバリエーションが少なく、美味しいものが少なかったから、野菜が美味しく感じたんだろう」...程度に思っていました。

 

 

 

 

「正常な状態」を知らないとこうなります。

 

 

 

 

各地の有名な特産品も、知っている人と知らない人とでは評価が分かれます。

 

 

 

《誰もが食の宝庫と考える北海道の産物や各地の特産品も例外ではない》

 

 

多くの人は北海道の産物はどれもがおいしいという、何とはなしの常識に疑いを持っていません。

 

 

でも私は北海道産の農畜産物、野菜や果実でおいしいと思うものに出会った記憶はありません。

 

 

農薬浸けの傷んだ農地、これは北海道も例外ではありません。

 

 

料理の試作に北海道産のジャガイモを使えば、水のような味わい、そしてあっという間に煮崩れる組織の粗いじゃがいもがほとんどです。

 

 

「きたあかり」でも、「男爵」でも一緒です。

 

 

誰もが最高においしいと思っている北海道産のアスパラガスも、旬であっても歯切れが悪く、ごりっとしていて、そして変な苦味のあるようなものばかりです。

 

 

アスパラガスの暖かい味わいなど、ついぞ感じたことはありません。

 

 

 

2度ほど十勝産のものも含めて何種類かのあずきを同時に煮て、味わいを比較したことがあります。

 

 

 

結果として2度とも十勝産のものが1番まずかったのです。

 

 

 

広大な冷涼の地、北海道。

 

 

 

テレビや旅行会社などのイメージ宣伝によって、おいしいものが豊かに生産される地と多くの日本人がなんとはなしに信じています。

 

 

 

しかし本当は、すでに農地はミネラルの涸渇した息も絶え絶えの土地であることは間違いありません。

 

 

 

「お前はほんとに北海道の農業を知り尽くしているのか」と、私に言わないで下さい。

 

 

 

異常な味のする産物しか口にできなければ、私にはこんな結論しか導き出せないのです。

 

 

私は北海道の産物のみを非難するつもりはありません。しかし、北海道の産物は日本の産物の健全性の象徴ですから、まず初めに挙げなければならないのです。

 

 

 

日本のほぼすべての産物が今でも年々、さらに味わいを劣化させているのです。

 

 

 

前述の新潟の米だけでなく、仕事でどこへ行ってもおいしいご飯を食べることはできません。

 

 

 

岡山のマスカット、いくら立派な箱に入っていても、その異常な渋みの混じった生命の眠りこけた濁った味わいに、私の舌は思わず喉の奥にひいてしまいそうです。

 

 

そして岡山や山梨、福島の桃、やはり渋みの混じった少しの清新さもなく、表情のない味わいが舌を覆います。

 

 

 

鳥取の二十世紀梨、岐阜の富有柿、今も年々味わいは希薄になっています。

 

 

 

山形のさくらんぼ、まさにあるかないかの情けない味わいです。

 

 

 

味わいの中に清新な力強い季節の息吹を感じ取ることはありません。見るだけの季節感しか味わえない日本の旬の産物なのです。

 

 

 

(52~53p)

 

 

 

ここまでは、味がどのように劣化しているのかの説明でした。

 

 

 

次は、調理にどう影響するかの説明です。

 

 

 

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質の悪い食材では上手く作れない

 

 

 

「味」というのは、判断する者がプロであっても、所詮は「主観」です。

 

 

 

従って、どんなに詳細な分析でも「客観性に乏しい」と評価する方もいると思います。

 

 

 

それに対して、「調理」というのは、ある意味「理科の実験」です。

 

 

 

「調理した結果」というのは、化学反応であり、実際に起こっている事象ですから主観ではありません。

 

 

 

味の劣化の説明に納得がいかなかった方も、現実が理解できるのではないでしょうか。

 

 

 

4 日本の素材から本来のうまさは失われた

 

 

このように、あまりにも多量の農薬の使用により、土地は傷めつけられ、さらにミネラルの幅の極めて狭い化学肥料のために農地は傷つき、そしてメーカーの思惑による品種改良によって野菜などの味わいも失われ、同時に私達の口にもたらされる栄養素はさらに希薄になっていきました。

 

 

私の経験では1980年代の後半から1990年代の前半にかけて、堰を切ったように日本の野菜、果物のおいしさは失われていったように思えます。

 

 

恐らく戦後、少しずつ上昇してきた農薬がある程度の濃度に達した時に、土の荒廃は植物にとってどうしようもない状態になったように思えるのです。

 

 

白菜はまさに冬の寒さにかじかむ心を、しっくりと暖める優しすぎるほどの暖かさに満ちた味わいは失われ、寒々とした水のような歯触りが、味わいのすべてになりました。

 

 

キャベツは懐かしさをたたえた甘さは失われ、無表情なプスッとした味わいとなり、歯触りもシャキッとはいかず、バリッガリッとしたまったく異なるものに変わってきました。

 

 

そして何人かの人に毎年送ってもらっていた、私の本当に大好きな、贈ってくれた人すべてを善人に感じさせてしまう京都の「千枚漬」のかぶも例外ではありませんでした。

 

 

繊維は粗くなり、本来は滑らかで柔らかいはずの歯触りは、ゴリッとした不快で不自然な歯触りになり、心にしみ込む舌のすべての部分に感じる安心感に満ちた暖かい味わいは失われていきました。

 

 

私は1986年に初めて店を出した時から、テイクアウトできない、いちじくとりんごの白ワイン煮を喫茶室で出していました。

 

 

初めはうまく思う通りのものができていました。

 

 

しかし、3、4年過ぎた頃から、どんなに作り方を変えてもおいしくできなくなっていったのです。

 

 

果物の白ワインの砂糖煮は、丸のままのいちじくや芯を取って縦に4つに切ったりんごを鍋に入れ、ちょうどひたひたの白ワインを加えて、ごく弱火で本当に軽くフツフツと30分弱、竹串が何の抵抗もなくスッと入るほどに煮ます。

 

 

ここに白ワインの4分の1の重量のグラニュー糖とお茶用のパックに入れたアニスシードを加え、再び火にかけてグラニュー糖を溶かし、火を止めて24時間おきます。

 

 

翌日さらに前日と同じ量のグラニュー糖を加え、加熱して溶かします。

 

 

これにレモン汁を加えて、冷めたら冷蔵庫に1週間おきます。

 

 

冷たくしてたっぷりの煮汁を皿に盛り、いただくのです。

 

 

それぞれが本当に夢見るようなおいしさです。

 

 

 

いちじくの魅惑的なビロードのような舌触りに私の意識はふっと静けさに包まれます。いちじくのおいしさの芯の部分がアニスと解け合い、濃密に、そして静かに私の五感の中に流れるのです。

 

 

りんご、その歯触りが、白ワインとりんごの小さくつぶやくような酸味に重なるのです。

 

 

思わず日常がほんのわずかの間なのですが、ふっと途切れるのです。そう、日常にはない意識をまさぐるおいしさなのです。

 

 

砂糖は1度に全量を加えると、果肉の外の砂糖の濃度が高くなり過ぎ、果肉の組織から急激に水分が引き出され、果肉は縮んで固くなってしまいます。

 

 

水分の4分の1の重量を2回に分けて加えていきます。

 

 

穏やかに組織から水分が移動し、砂糖も組織の中に入っていきます。

 

 

しっかりと果肉の水分と砂糖の入れ替りが済んだところで次の砂糖を加えると、やはり穏やかに入れ替りが行なわれ、滑らかな舌触りが得られます。

 

 

ところがりんごはどんなに静かに似てもボロボロに煮崩れてしまいました。また煮崩れなくても2回目の砂糖を加えると、果肉が少し縮み、タクアンの歯触りに似た固さが出て、舌触りはザラザラなのです。

 

 

いちじくは元々がかなり柔らかいのに、1度砂糖を加えると、他のいちじくや器の底などに触れている部分が、足のかかとのような固さになってしまうのです。

 

 

やり方を変えてもどうしてもダメでした。

 

 

当時、私にはそれがどうしてなのかまったく理解することができませんでした。

 

 

今考えれば、この頃から急速に日本の農産物は劣化し始め、いちじくもりんごも繊維が粗くなり始め、煮崩れたり、水分と砂糖の入れ替りが緻密にいかなくなり、果肉から水分が取られ、固くなっていったのでしょう。

 

 

また私の大好きだった生のマスカットをたっぷり使ったタルトゥも、急に味わいが落ちていきました。

 

 

ぶどうに深い味わいがなくなり、渋みのある芯のないボケた甘さだけのマスカットに変わっていったのです。

 

 

(58~60p)

 

 

 

 

 

 

不都合な真実ですが、事実は事実として受け入れていくしかありません。

 

 

 

 

3 何でもある日本、でも何でも中途半端な日本

 

 

《ドゥ二・リュッフェルの講習会を通じて分かった日本の食材》

 

 

2008年、この年もドゥ二・リュッフェルは日本にやってきて、フランス料理とフランス菓子の技術講習をしました。

 

 

彼の本来のフランス料理の考え方、技術、そして本当の深いおいしさを、この日本で正しく再現するために、イル・プルー・シェル・ラ・セーヌでは、毎年彼をフランスから招いて料理講習会を開いています。

 

 

しかし日本でドゥ二・リュッフェルが料理を作るには素材の点で多くの困難があるのです。

 

 

特に12年前第1回のフランス料理講習会を始めたばかりの頃は絶望的でした。

 

 

彼と共に本来のフランス料理をこの日本でできるだけ再現しようともがく中で、いかに日本の素材が荒廃しているかを改めて認識することになったのです。

 

 

ここでは、その中の主なものを記してみようと思います。

 

 

すでに述べたように日本の農産物、畜産物、乳製品はどうしようもなく味が薄いか、まったくないものがほとんどです。

 

 

しかしほとんどの人達は、この異常な農産物しか口にする機会がないのですから、私の言う事に疑問を持ったとしても当たり前です。

 

 

フランス料理では、じゃがいもをよく使いますが、ある年はポタージュに使いました。

 

 

でもどれもじゃがいもらしい味のないものばかりでした。

 

 

地方の農家、あるいは質の高い食材を看板にしているところも含めて、10ヶ所近く取り寄せましたが、本当においしいものは1つもありませんでした。

 

 

人参は予想外にも3ヶ所ほどよいものがありましたが、例年は、ゴリゴリの歯触り、薄い味わい、香りのものばかりで何1つ使えそうなものがないのが普通なのです。

 

 

フランス料理のフォン(出汁)にはセロリを使いますが、薄い緑色の味も香りもしない歯触りと形だけのセロリしか、この日本にはないのです。

 

 

本当にあちこち探しましたが、長年見つけることができませんでした。

 

 

やっと一昨年、セロリらしい味わいのものを1つだけ見つけることができました。

しかしこれも今年はダメでした。

 

 

すべてが料理に加えても加えなくても味は同じようなものばかりなのです。

 

 

なすにしても、スカスカの味のしないものばかりです。

 

 

10ヶ所近くから取って、そこで1番ましなものを選びます。しょうがない、そんな気持ちでしか選べないのです。

 

 

日本のほうれん草では、渋いやら、味がまったくないやら、料理の味わいがまったく成り立ちません。

 

 

フランスからの冷凍ものの方がずっとましなのには悲しくなってしまいます。

 

 

 

キャベツも同様です。昔のような豊かな味わいはありません。ニュージーランドからのキャベツを使いました。

 

 

 

ニンニクも7、8箇所から取り寄せましたが、ドゥ二・リュッフェルは、香りも弱く苦いと言ってOKが出ませんでした。韓国産のものをなんとか取り寄せました。

 

 

 

講習会が始まる前には、教室には山のように様々な野菜が集められます。ほとんどが本来の味を失ったものばかりです。

 

 

 

材料代はとんでもない額になります。

 

 

しかし私には、真の味わいがほぼ消失したこの日本に、ドゥ二・リュッフェルの正しい最上のフランス料理を伝える義務があります。執念を持って少しでも良い素材を集めます。

 

 

(中略)

 

 

この国で本当のフランス料理の味わいを再現するためには、作り手の様々な面での強い意志が必要なのです。

 

 

また日本にはエチオピア、タイ、レバノン、ベトナムなど、様々な外国の方々が自ら料理を作るレストランが数多くあります。

 

 

いくらこうした人達が母国の料理を作ったとしても、日本で産出される素材だけで作れば、決してお世辞にもおいしいと言えない料理ができてしまいます。

 

 

(93~98p)

 

 

 

 

常識とは間逆ですね。

 

 

次に、このような食材を「美味しい」と感じる理由について説明します。

 

 

それは、「味覚」は狂うからです。

 

 

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ビールが不味いのは気のせいではなかった。栄養の乏しい食材と狂った味覚

 

 

 

先ほど、「不自然な物を美味しいと感じる人」が増える事で、その需要に応える商品が生まれるので、世の中を良くするには「正常な感覚を持っている人」が必要だ...というお話をしました。

 

 

 

 

しかし、「感覚」というのは、注意していないと洗脳によって簡単に狂ってしまいます。

 

 

 

特に「好み」というのは、意外に周囲の影響を受けます。

 

 

 

 

世界で似たようなファッションが流行ったり、モテる異性の外見の条件がだんだん似てきている事から考えても、ある程度は誘導できます。

 

 

 

 

「味覚」も狂わせる事が可能です。

 

 

 

 

美味しいものを「美味しくない」と感じさせたり、美味しくないものを「美味しい」と感じさせるわけです。

 

 

 

 

そして、「栄養の乏しい食材」と「狂った味覚」はセットだと考えています。前者を誤魔化し、維持する為には、後者が必要なのです。

 

 

 

 

 

ここでは、味覚をおかしくする方法を紹介します。

 

 

 

《強い思いとあせりから、解決策のない批判だけの本を出版する》

 

 

私は2001年に日本の食を批判した『破滅の淵の裸の王様』(文芸社刊)を出版しました。

 

 

ほぼすべての人が正しいと考える日本人の今の嗜好、おいしさは、かなりの部分がこの最近、昭和30~40年代に築かれてきたこと、世界の中で他には存在しない日本人のみが正しいと考える異常で間違った食習慣であることを指摘しました。

 

 

しかしこの本は、日本の食を乱暴にあげつらうだけで、それに対しての対処法はまったく語っていません。

 

 

ただこの異常な食の真実を、少しでも早くこの国の人に伝えたいというあせりからの、やはり人を動かすだけのエネルギーの不足した本でした。

 

 

しかしここに示された考え方は、今読み返してみても、それまで誰もが考えたことのない、極めて新しい視点からの分析であり、その真実性は今も一点の曇りもないと考えています。

 

 

たとえば「超ドライなビール」についてです。

 

 

この超ドライなビールのもてはやされ方は、日本の食の混乱を端的に表していると思います。この本から引用します。

 

 

水にも劣るビール

 

 

「私達が作ります。本当の味、洗練された味」。

 

 

テレビのコマーシャルで耳にタコができるほど聞かされた言葉です。これほどまでに思い上がった、しかも私達大衆を見下した傲慢な言葉もないでしょう。

 

 

「私達が新しい、今までにないおいしさのビールを作り出しました、あなた達一般大衆は本当の味なんか分からないでしょうから、私達が教えましょう」と言っているのですよ。

 

 

 

そもそも「本当の味」とは、生命の進化の中ですでに築き上げられているものであって、新しく作り出すものではないと思うのですが。

 

 

この「超ドライなビール」が発売された時は、新しいおいしさのビールが出たと大評判になりました。

 

 

私は何かうさん臭いものを感じていたので、あわてて飲むということもなかったのですが、ある時、小料理屋でとにかくうまいからと薦められ、それではと注文してみました。

 

 

口に含んだ瞬間、キョトンとしてしまいました。

 

 

 

 

すべてが消えてしまうのです。今、冷たすぎる液体が口にあるという実感しかないのです。瞬時に状況を理解できませんでした。

 

 

 

飲み物であれば、当然感じる口に含む前の香り、味わい、そして、飲み下した後の余韻、全てがこのビールにはないのです。ビールという個性が感覚に与える、豊かな情報がないのです。

 

 

 

これはビールではありません。ビールの仮面を被った愚かさの詰った、ただの冷たい液体です。

 

 

 

1杯飲み終えた時、私は何か空恐ろしいことが、これから始まるような予感がしました。

 

 

結果的にこのビールは今でも爆発的に売れています。

 

 

 

「おいしいから何杯も飲める」。

 

 

 

バカなことを言わないでください。これだけすべてを取り去った、ただの冷たい液体なら、人間の頭にも身体にも、何も働きかけることなく、いくら飲んでも何の情報も感覚に蓄積されません。

 

 

 

ビールを飲んだという実感が湧いてこないから、ビールの虚像を追い求めてあわてて何杯もむやみやたらにジョッキをあおります。

 

 

クァーッとグラスを傾け、一気に喉に流し込み、残るのは炭酸の刺激だけです。

 

 

ビールではないものを私達に与え、これこそがビールだと思い込ませる。実にうまい、こずるいやり方です。

 

 

確かにこのメーカーは、ありもしない虚像を生み出すことには長けた企業だといえるでしょう。大量販売をもくろみ多くの嘘を積み上げ、ギンギンに冷えたビールを、できるだけ瞬時に口を通過させ、ビールを飲んだ実感がわかないように飲ませることを実に執拗かつ巧妙に追い求め続け、大成功したのですから。

 

 

その周到な手口はこうです。

 

 

まず消費者にビールは冷たいほうがおいしいと思わせるため、味を少しずつ薄めていきます。

 

 

香りを、味わいを執拗に取り除きます。

 

 

考え方は今の日本酒と同じで、発酵を不活発に、単純にし、フィルターにかけて雑実を取り除くことなのです。

 

 

味のしなくなったビールは、本来のビールを飲むための望ましい温度、10~13度ではまずくて飲めなくなります。

 

 

同時に大々的に「ビールの虚像」を宣伝し、冷やしておいた方がおいしい、と思い込ませるようにしたのです。

 

 

とにかく、これは実に周到に行なわれ、いつの間にか私達は、ビールは5度くらいに冷やしたほうがおいしいと洗脳されてしまったのです。

 

冷たいという感覚は印象が強いため、まったく味わいのないものでも、この印象と重ね合わせることによって、おいしいと錯覚させることができるのです。

 

 

でも、冷たいという感覚は、実は人間にとっては苦痛なのです。

 

口に含む、苦痛が走る、あわてて瞬時に飲み込む。一陣の風がサッと吹いたようなものです。

 

喉ごしというのは、口の中で味わいを確かめたりしないで、速く喉を通過させろという、メーカーが勝手に作り上げたたわいのない嘘なのです。

 

 

 

グラスの中に残って、10度ほどに温まったビールを飲んだことはありませんか。

 

 

何の味もしません。グルタミン酸ソーダでも入れたような薄ら甘い、気持ちの悪い水としかいいようがありません。

 

 

良く冷えたビールがおいしいのではなく、冷やさなければまずくて飲めない、というのが正しいのです。

 

 

ところが私達は、まんまとメーカーの戦略にはまり、誤った情報を頭の中に植えつけられてしまいました。

 

 

 

日本人にとってのビールのおいしさは、カーッと流し込む、その爽快さだけになってしまったのです。

 

 

そもそもビールを一気に流し込まなければならない理由など、どこにもありはしないのです。

 

 

高温多湿の日本で、夏なんかとりあえず冷たいものを飲んで、厳しい暑さを忘れたい、という心理は分かります。

 

 

でもしっかりした味わいの、香りも、味もいっぱにに感じられるビールなら、一気にあおらなくても、幸せと涼しさを十分に感じることができます。

 

 

 

本当においしいビールは1、2杯で五感の全てが深く満たされ、それ以上飲もうという気はおこりません。それで十分なのです。

 

 

このメーカーは「切れのよさ」を味わいの大事な要素としていますが、これは味わいの要素となることはできません。「切れのよさ」とはビールの中においしさも栄養もなにもないことでしかありません。

 

 

私はこのメーカーだけを非難するつもりはありません。

 

 

確かに、このとんでもない日本的亜種のビールの出現で、他のメーカーのビールも地に落ちました。ムードだけの意味のない銘柄が乱発されましたが、底に流れる考えはどれも皆同じです。

 

 

 

名前だけ、イメージだけでどれもこれも似たりよったりです。

 

 

希薄な味わいと薄っぺらな水っぽい舌ざわり、ちょっと温度が上がれば、なんでしょう、あの気持ちの悪い化学調味料のような甘さは。

 

 

他のメーカーのビールです。「まじりっけなしのうまさ」って何なんでしょう。

 

 

 

何が「まじりっけ」だというのでしょうか。実はそのまじりっけとはビールのおいしさであり、栄養素なのです。

 

 

 

結局、このビールも超ドライなビールと同じく、ある意味では他メーカーはもっとこずるい。

 

 

 

味のないビールをギンギンに冷やして、何も感じさせずに流し込ませて消費者を増やす、という戦略はまったく同じなのに、さも我々は一味違うんだと、小利口なことを言っているだけなのです。

 

 

 

それにしてもどのメーカーも一斉に同じ方向に走り出した事実はあまりにも悲しい。

 

 

 

地域振興のためもあってか、あちこちに地ビールとやらが乱立しています。それらの多くは、個性的な味わいを目指していると言いますがそうではありません。

 

 

 

会津のものも越後のものも岡山のものもまったく変わりばえのしない大手メーカーと同質のビールばかりです。」

 

 

 

この本を出版した頃は、私もまだ肝っ玉がすわっていませんでした。結局怖くてこのビールメーカーの実名を避けた記述になってしまいました。

 

 

 

しかしこんな中途半端な気持ちでは、日本の食の実情は少しも変わることはないことを痛いほどに知ることになりました。

 

 

 

「水にも劣る」ビールはもちろんアサヒの『スーパードライ』です。

 

 

 

アサヒスーパードライの日本市場の席巻は、1企業の巧妙な情報操作によって、本来の味わいが国民的規模で完全にねじまげられた最も典型的な例なのです。

 

 

 

こんな何の味もしないビールがあれば、料理の作り手も楽なのです。よくない素材で下手に作っても、それ以上に味のない飲み物があるので、料理のまずさが隠されるからです。

 

 

そして飲んでも飲んだ気がしないので、結局お客はだまされて余計に飲んでくれます。

 

 

 

このビールとはいえない奇々怪々な代物の出現で、日本の食は「香り、味もない、そして単純極まりない食感だけ」の世界に一気に突っ込んで行ったのです。

 

 

 

他のメーカーのビールはもちろん、日本酒、そして和洋中すべての料理も先を争って「水の如き味わい」つまり単純化を目指してきたのです。

 

 

 

今考えればこのアサヒスーパードライは時代の要請であり、食の領域でのバブル経済の先駆けであったと思います。人々が愛してきたビール本来のおいしさと、それが存在してきた理由も歴史も強引にはぎ取ったのです。

 

 

 

ビールの嫌いな人にもビールとだまして、1本でも多く売るために、ビールの個性をすべてはぎ取り、まさに究極に単純化された味わいを目指してきたのです。

 

 

 

食の領域がこぞってこれに追随し、その結果として今、この日本に残るのは資本の論理が貫徹し、人間性を損失した心と身体を破壊する「食」でした。

 

 

この日本にもたった1つ、私がおいしいと思うビールがあります。

 

 

私の冷蔵庫にはいつもこのビールだけが冷やしてあります。トナカイと星の絵が描かれた「銀河高原ビール」の350ml缶です。

 

 

同じ会社の他の2種類はまずいです。

 

 

この会社は1度、一挙に拡販を目指し破綻しています。もしこのビールが人気を得ても、再び調子にのり味わいを損ねないように望みます。

 

 

(280~284p)

 

 

 

 

 

最近の若者は、昔の人に比べてビールを飲まなくなってきているようですが、本当においしいビールを飲んた経験がないから、好きになれないのかもしれません。

 

 

 

 

これはビールの話ですが、私はイメージ戦略による「正常な味覚の書き換え」は、「あらゆる食材」で行なわれていると考えています。

 

 

 

 

だからこそ、先に紹介した「不自然な栄養の特産物を“美味しい”と錯覚している人」が多いわけです。

 

 

 

 

また、糖度が高ければ「美味しい」と感じる舌も、言っちゃ悪いですが、バカになっています。これはかつての私もそうです。

 

 

 

『NEXT WISDOM FOUNDATION タネが危ない!わたしたちは「子孫を残せない野菜」を食べている。~野口のタネ店主 野口勲さん』より引用

 

 

「タネなし」を好む現代人

 

 

うちのお客さんは大きく二つのピークがあって、ひとつは70代から80代の方。

 

 

会社を定年退職して、いままではスーパーで買っていた野菜はどうも美味しくないから、自分で有機栽培して、昔に食べたおいしい野菜を食べたいと思って栽培を始めたけどどうも昔の味にならない。

 

 

 

理由を調べると、やっとタネが違うからだということに気が付いて、うちから買うようになった人たち。

 

 

もう一つは30代から40代の方で、子供が生まれて、健康に育てたいという人たち。その間のお金を稼ぎたい年代の人たちは一切興味がない。

 

 

 

いまの人の「美味しい」は、甘くて柔らかいもの、生で食べられるもの。

 

 

昔の大根なんて堅くて辛い。なぜかというと細胞のひとつ一つが緊密で均一だから。

 

 

F1だと固定種で3〜4ヶ月かかるところを2ヶ月で収穫してしまう。

 

 

2ヶ月で成育するということは、細胞が水ぶくれのようにフニャフニャで、その細胞を維持するために細胞壁が強くなって根が崩れるのを防ぐ。

 

 

だからいまの大根を大根おろしすると水分でペチャペチャものが出てきて、おろし金の方には繊維が残って付いている。昔の大根をおろすと均質なものになります。

 

 

いまの大根はすぐに煮えますが、昔の大根は時間をかけると辛みが甘味にかわる、味も全然違うんです。

 

 

いまの子供はトマトにタネがあるのも嫌がるという。

 

 

タネがないものがおいしい野菜なんです。

 

 

子供がよろこぶからという理由で、トマトまで雄性不稔になっています。

 

 

本来植物は人間に食べられるために生きてるんじゃない、タネをつくって子孫を残すために生きている。そのタネを邪魔だというような世の中になってしまったんですね。

 

 

 

ある程度年をとっている人は、「昔の野菜や果物はおいしかった」...と感じるようですから、詳細な分析はできなくても異変に気付けるだけまだマシです。

 

 

 

生まれた時から、「栄養の乏しい食材」ばかり食べている世代は、それすらも感じることができません。

 

 

 

現代人は、甘くて柔らかいものや、生で食べられるものが「美味しい」と感じるようになった事で、結果的に「不自然な食材」を選択するようになりました。

 

 

 

以下の記事で私は、「食材を感覚だけを頼りに、体に良いか悪いかを判断する事」を、信憑性が低くて危険だと述べました。

 

 

 

「美味しいと感じる食べ物は体に良い」と感覚だけで判断するのは危険です

 

 

 

その理由として以下の3つを挙げました。

 

 

 

 

1、美味しいと感じる食べ物が結果的に体に良いこともあるが、それはあくまで結果論なので、「美味しい物=体に良い」わけではない

 

 

 

2、人間の感覚は当てにならないし、狂う事もある

 

 

 

3、「気持ち良い、美味しい=体に良い」なら、これらを我慢することが悪い事になる。しかし、「気持ち良いや美味しいを我慢するストレス」がどれほど酷いストレスなのかハッキリしない

 

 

 

 

これに以下を加えたいと思います。

 

 

 

 

4、目的の為に、洗脳によって意図的に感覚を狂わせる事があるから

 

 

 

これと合わせて、肩書きのある者に「体に良いか悪いかは感覚を頼りに判断するのが良い」、「美味しく食べるのが体に良い」...等と言わせておけば、

 

 

 

多くの人は「体に悪い食べ物」でも好んで食べるようになります。

 

 

 

 

改めて、危険であると強調しておきます。

 

 

 

 

本記事で引用した本の帯には、「ぜひ本書を、健康に気遣う一般の方々だけでなく、医師の方にも読んでもらいたいと切に願います」...と、弓田氏の言葉が書かれています。

 

 

 

しかし、多くの医師は論文ばかり読んで、一般書籍はほとんど読まないそうですから、目に留まることはあまりないでしょう。

 

 

 

その医師や、栄養士が「スカスカの食材」から栄養を摂りましょう...と誘導するのですから、なんとかしないといけません。

 

 

 

「言いつけを守る真面目な人」程被害を受けるからです。

 

 

 

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食材の品質が劣化したのは、不自然な種にも原因がある

 

 

 

作物の質が変わってしまった理由は、土壌からミネラルが失われた、農薬の影響...等、色々と言われていますが、「種」自体の問題もあるので、一応紹介しておきます。

 

 

 

 

『NEXT WISDOM FOUNDATION タネが危ない!わたしたちは「子孫を残せない野菜」を食べている。~野口のタネ店主 野口勲さん』より引用

 

おいしさの8割はタネで決まる

 

 

現代の農業では、おなじ規格のものを大量に作ることが農家に求められています。

 

 

そして、規格通りの野菜を作るためには「F1」のタネを使わなければならない。

 

 

「F1(雑種第一世代)」のタネから育った野菜は、みんな同じ成育のしかたをし、型にはまったようなかたちになり、そして同じ時期に収穫できます。つまり、出荷しやすく、売りやすいということです。

 

 

 

一方で「在来種」や「固定種」と呼ばれる、昔から使われているタネは一粒一粒に特徴があり、多様性があり、早く育つものもあれば遅く育つものもある。

 

 

 

葉の形を見たり、成育の状況を見ながら、大きくなったものから収穫します。

 

 

 

一度タネをまけば長い間収穫できますが、需要に合わせてまとまった量を定期的に出荷することができないから、お金にするのは難しい。

 

 

 

でも味も昔の野菜そのままで美味しいので家庭菜園に向いています。

 

 

 

そして、いくら無農薬や有機肥料で育てても、味を決める8割はタネ、本当に昔ながらの美味しい野菜を食べたいなら在来種を自分で育てるしかありません。

 

 

 

 

昭和30年頃までは、「固定種、在来種」が多かったようですが、現在のスーパーで売られている野菜のほとんどは「F1」品種です。

 

 

 

F1(Filial 1 hybrid)」を直訳すると、“1世代交配”です。別名に「一代雑種」、「ハイブリッド種」があります。

 

 

 

 

「一世代」の意味は以下の通りです。

 

 

 

『マクロビオティック 健康相談 F1種について』より引用

 

 

循環しない品種

 

 

F1種は、一代限りです。

 

 

その一代目の個体が人間が意図したとおりの形姿や性質を備えていれば、それで使命を果たします。

 

 

 

その個体から二代目以降が生まれることは想定されていません。

 

 

 

常に一代目の個体として消費され続けるのが、F1個体の宿命です。一代限りとは、そういう意味です。

 

 

 

実際に、F1種の個体から二代目はできにくいといわれます。子孫ができにくいのです。

 

 

たとえできたとしても、二代目の個体は親とは全く違った形姿や性質をもっているなど、同一品種としての特性を保持しずらくなっています。

 

 

 

そうなると元々の品種改良した目的から外れてしまうので、F1はF1止まり、すなはち一代限りで終わるのです。

 

 

 

これに対して在来種は、品種としての特性が親から子、子から孫へと代々保たれています。

 

 

ゆえに、世代を越えて種として存続していくことができます。このことは逆に、在来種が長い年月をかけて環境に適応しながら生き延びてきた証でもあります。

 

 

 

一代限りのF1種は世代を越えて生命の受け渡しをすることができませんから、循環しない品種ともいえます。

 

 

 

厳密にいえば、品種とすら呼べないかもしれません。F1種は、人工交配によって生みだされたハイブリッドのあだ花なのでしょう。

 

 

 

 

「F1」は品種改良によってできた種です。“一世代”と呼ばれていますが、一応、蒔けば芽はでます。

 

余談ですが、「自殺する種子」と呼ばれている、遺伝子操作によって作られた種があります。こちらは、育った作物の種を植えても芽が出ない種子なので、「F1」とは違います。

 

 

 

 

動物性食品の品質と栄養について

 

 

 

本記事は、「サプリメントからビタミンやミネラルを摂取する事に躊躇している人」、「これらが豊富に含まれていると言われている野菜や果物を摂れば十分であると考えている人」に向けて書いているので、植物性の食品の栄養が減っている事について話しました。

 

 

 

しかし、これは植物性の食品だけに限った話ではありません。

 

 

 

 

動物性の食品も同じように不自然です。

 

 

 

 

餌が違えば栄養価も違います。また、薬漬けになっているので、質も悪いです。

 

 

 

 

ハッキリ言って、流通している物はどんな物も、探せば悪い面が見つかります。純粋で自然なものはないのではと思っています。

 

 

 

あったとしても、庶民が気軽に毎日食べられる価格ではなかったり、普通のスーパーに売っていなかったりします。健康を考える年金暮らしの人達にはとても勧められません。

 

 

 

 

しかし、食べないと生きていけませんから、よりマシな物や方法を選択するわけです。

 

 

 

 

このブログの目的は健康になる事、体質を改善させる事です。

 

 

 

その為にしなければならない事は、体の構造を把握した上で、「最も有害なもの」を避けて、「足りないもの」は徹底的に補う事だと考えています。

 

 

 

 

私の経験では、これが1番効果的です。

 

 

 

 

むやみやたらに有害物質を避けているだけでは結果はでません。金と時間と手間を浪費し、疲弊するだけです。

 

 

 

 

「足りないもの」を補うには、タンパク質だとプロテイン、脂質だとバターやMTCオイル等、ビタミンやミネラルはサプリメントを使います。

 

 

 

 

それぞれの必要量は個人差があります。

 

 

 

 

で、「最も有害なもの」とは、摂取する量が多い「糖質」です。

 

 

 

 

他にも有害物質はあります。しかし、少量ですが複数あるので、全部を避けていたら食べる物がなくなります。

 

 

 

そして、努力のわりに効果が薄いです。健康にならなかったので、私は今の「少ない努力でより効果のある方法」を選択しています。

 

 

 

 

ただし、「その他の有害物質」を積極的に避けないからといって、これらを浴びても平気だ...等とは思っていません。

 

 

 

 

良くないのは分かっているけど、個人で対策するには限界があります。なので、今はその作業に力を入れていないだけです。

 

 

 

安心・安全が大好きな日本!でも何故か「健康を損ねる物質」への規制だけは甘い

 

 

 

これらは個人レベルで避けるのは無理があるので、社会全体で変えていくべきだと思っています。

 

 

 

 

現代の食品は、私達が気付いていないだけで、蓋を開けてみると、低栄養でまんべんなく汚染されています。

 

 

 

 

そのような欠点があるので、戦略的に健康食品やサプリメントを利用した方が、食品だけに頼るよりも、早く結果が出るのです。

 

 

 

 

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栄養が激減した野菜や果物、日本食品標準成分表の昔と現代の数値を比較してみた

 

 

健康の為に、メディアや医療従事者の情報を鵜呑みにして、せっせと野菜や果物を食べている人は多いです。

 

 

 

私は過去に何度も、これらのビタミンやミネラルが当てにならない事や、糖質が多い事を理由に、不足した栄養素はサプリメントで摂取する方が良いと主張してきました。

 

 

 

例えば、こちらです。

 

 

 

ウコンが原因と見られる肝臓の障害は、本当に鉄が問題なのか考えてみた

 

サプリメントを過剰摂取しても問題ないケースと、その結果について

 

良い栄養状態の判断基準

 

サプリメント肯定派が批判される理由は正当なのか検証してみた

 

サプリメントが批判される理由を社会背景から考えてみた

 

 

 

 

私はこれらの記事で、「栄養はサプリメントからではなく、食品から摂取した方が良い」...という一般的な考えに対して、

 

 

「現代の食物は、昔と比べて栄養素が不足しているので、サプリを使わないと足りない」と説明しました。

 

 

 

 

「現代の食物は栄養素が不足している」という説は、医療、栄養、農業...と、様々なところで言われているので、あえて具体的な資料は提示していませんでした。

 

 

 

しかし、その詳細が知りたいとコメントを頂きました。

 

 

 

僕の投稿に対して詳細にご回答くださって、ありがとうございます。アリヤさんのご指摘に納得する箇所が多く、自分の考えの手抜かりを反省します。

 

 

最後に、一点だけ教えてほしいことがあります。

 

 

「自然の食物にミネラルやビタミンがわずかしかないのは、人間が環境を作り替えてしまったからです」に関することです。

 

 

今の食べ物が昔に比べて低栄養であることは、僕もどこかで読んで知っています。

 

 

ですが、どれくらいの変化があったのか具体的な数値はあるんでしょうか?ご存知でしたら、教えていただけると助かります。

 

 

 

 

具体的な根拠があった方が、いまだに「食品に含まれている栄養素」を過信している人もその危険性に気付いてくれるのではないか...とも思ったので、本記事でその根拠を紹介しておきます。

 

 

 

 

また「栄養はサプリからではなく食品から」...等と言う医療従事者や栄養士の方々にも、その言葉がどんな結果をもたらすのかよく考えていただきたいと思います。

 

 

 

一応言っておくと、私がこれらの職業についていたら恐ろしくて言えないですね。

 

 

 

その理由がこちらです。

 

 

『Yoshinori Yamamoto(山本義徳)氏 ツイッター』より引用※元は『ヒロちゃんファーム』から転載されたもの、さらにその元は『科学技術庁』です。

 

 

 

 

 

昭和26年・昭和57年・平成14年の食品に含まれている栄養の変化だそうです。

 

 

 

昔の人と同じようにビタミン・ミネラルを摂取しようとしたら、何倍も食べなければなりません。食費がかかってしょうがないです。

 

 

 

また、それだけの量を食べたら、当然そこに含まれている糖質も大量に摂取してしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまで地に落ちている食品を「栄養たっぷり」、「ヘルシー」...等と言って食べさせようとするわけです。

 

 

 

 

それを真に受けた消費者が「中身がスカスカな物」を「良い物である」と勘違いして買う...

 

 

 

 

ブラックボックスの「食品」だから許されているようなものですが、これが「車」とか「パソコン」とか「宝石」...といった他の物だったら詐欺ですね。

 

 

 

 

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野菜や果物の栄養が減っているという説に対する反対意見

 

 

何でもそうですが、ある事象の問題点を指摘すると、決まって「それは危険ではない」と反対意見を唱える人が現われます。

 

 

 

 

例えば、「糖質は身体にダメージを与えるから制限した方が良い」と指摘すると、「糖質は身体にとって必要だから摂取しなければいけない、糖質制限は危険だ」...等と主張する人が現われます。

 

 

 

また、「遺伝子組み換え食品」を食べて腫瘍だらけになったマウスの実験結果があると思えば、反対に「遺伝子組み換え食品は安全である」とする実験結果も存在します。

 

 

 

 

・・・このように、「危険だ」と注意勧告すると、それを火消しする者が現われるわけです。

 

 

 

 

で、「野菜や果物の栄養が減っている」という説も、ご多聞に漏れず反対意見が存在します。

 

 

 

 

「成分表を根拠に野菜の栄養が減っているという話は誤解だから、栄養補給はサプリメントに頼るのではなく、野菜を食べよう」...という意見を紹介します。

 

 

 

『kk-information 『<食と健康>「現代野菜の栄養価は低い」は本当か?』に対する私なりの考察。』より引用

 

 

<食と健康>「現代野菜の栄養価は低い」は本当か?

 

 

「昔の野菜と比べて現代の野菜の栄養価は低い」といううわさが根強く流通しています。

 

 

文部科学省発行「日本食品標準成分表」の古い版より新しい版の方が、同じ野菜でも栄養価分析値が低い、という情報が根拠になっています。

 

 

しかし成分表をよく読むと、どうも話が違うようです。管理栄養士の成田崇信さんのリポートです。【毎日新聞医療プレミア】

 

 

 

私がこのうわさを初めて聞いたのは20年以上も前でした。

 

 

 

「栄養価が低く、ただ野菜の形をしているだけなので食べても意味がない」という極端な話までありました。

 

 

 

栄養価が低くなった原因として、次の3点がセットで挙げられることが多いようです。

 

 

(1)化学肥料の使い過ぎで土地が痩せ、野菜がしっかり育たない

 

 

(2)味や見た目を重視し、栄養価の低い品種が多く栽培されるようになった

 

 

(3)旬を外れた栄養価の低い野菜が通年流通するようになった--。

 

 

そして、これらの説を裏付ける資料に「日本食品標準成分表」が使われているのです。

 

 

 

◇ニンジンの栄養価分析値を比べてみると

 

 

日本食品標準成分表は1950年に初版が発行され、これまでに7回改訂されています。最新版は2015年版(7訂)です。

 

 

 

50年の初版と2015年版で、ニンジンの栄養価を比べてみると、確かに数値が違います。

 

 

 

ニンジンに含まれる鉄分は初版が2mgで、最新版は0.2mg。

 

 

 

またビタミンAも1万3500I.U(International Unit)から720μg(マイクログラム)になっています。

 

 

 

数字は減っていますが、同時に単位も変わっています。

 

 

 

こうした数値の違いを読み解くカギは、最新版に書かれていました。

 

 

 

「食品成分表の策定に当たっては、初版から改訂までのそれぞれの時点で最適な分析方法を用いており、技術の進歩により分析方法に違いがある。このため食品名が同一でも、各版の成分値の比較は適当ではないことがある」。

 

 

 

ビタミンA減少という誤解については、栄養価を表す単位の変化が関係しています。

 

 

 

初版では、ビタミンAは国際単位=I.Uで表されています。

 

 

 

物質が体にもたらす効力でその量を表す国際単位です。初版から4訂まではこのI.U表示でした。

 

 

 

ところが5訂以降は、ビタミンAの主成分レチノール0.3μgを1単位とする「レチノール活性当量」表示に変わりました。

 

 

 

この単位の変遷を考慮せず、単純に数字を比べても意味はありません。

 

 

 

「ニンジンのビタミンAは、1万3500から720に激減した」と比べるのは間違いなのです。

 

 

 

一般の人にとってなじみのない単位に変わったため、このような誤解が生まれたのでしょう。

 

 

分析技術の向上だけでなく、単位の変化や体内での利用効率の見直しなどで、数値は変化してきたのです。

 

 

 

◇「おいしく食べること」は栄養価と同じぐらい大切

 

 

 

成分表のデータだけで、野菜の栄養価を評価できないことがおわかりいただけたと思います。それぞれの説についても、私の専門である栄養学の側面から見てみましょう。

 

 

<化学肥料の使い過ぎ説>=有機栽培した野菜の方が栄養価が高いという印象を持ちがちですが、過去50年間に発表された論文を系統的にレビューした結果、有機農法と通常栽培の野菜の栄養価に明確な差はなかった、という報告があります。

 

 

 

<味や見た目を重視し、栄養成分を犠牲にした品種が増えている説>=栄養価の高い在来種のホウレンソウが出回らなくなり、西洋種やえぐみの少ない品種が増えたため、栄養価が下がったケースがあるかもしれませんが、すべての野菜には当てはまりません。

 

 

 

例えば西洋カボチャの多くは、ビタミンAやビタミンCが日本の在来カボチャよりも豊富です。

 

 

 

また、甘みが強くて味が濃厚なフルーツトマトやミニトマトも、大玉の桃太郎トマトより栄養価が高いと評価されています。栄養価が向上した野菜もたくさんあります。

 

 

 

<旬の時期を外れた栄養不足の野菜が出回るようになった説>=望ましい時期に育った野菜の栄養価はもちろん高いのですが、栄養価が低くても季節を問わず好きな野菜を食べることができる幸せもあります。栄養摂取の側面も大切ですが、食べる喜びも栄養の一つ、と私は考えています。

 

 

 

成分表を根拠に野菜の栄養価が下がっているという話は、単なる誤解でした。

 

 

 

ですから、栄養補給をサプリメントに頼らず、おいしい野菜をどんどん食べてほしいと思います。

 

 

 

参照元:yahoo!ニュース

 

 

 

この記事では、作物の栄養が減った説である「化学肥料の使い過ぎ」「栄養を犠牲にした品種が増えている」「旬の時期を外れた栄養不足の野菜が出回るようになった」...に対して反論されています。

 

 

 

しかし、やはり1番気になるのは、成分表のデータだけでは野菜の栄養価を評価できないという、「数値が減っている事」に対する反論ではないでしょうか。

 

 

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人参のビタミンAの数値が減ったのは、単位がI.Uからμgに変わったからなのか

 

 

 

数値が減っているのは本当にただの勘違いなのか、「人参のビタミンA」を例に検証します。

 

 

 

1番古いものと、1番新しいものです。

 

 

 

  • 初版(1950年/昭和25年)・・・13500I.U(International Unit)

 

  • 最新版(2015年/平成27年)・・・720μg(マイクログラム)

 

 

 

 

数字が減ったのは、単位が変わったから...

 

 

そう言われたら、「減ったのは勘違いで、実は減っていなかったんだ」...と思ってしまいます。

 

 

 

 

しかし、私は納得できなかったので考えました。ポイントは以下の部分です。

 

 

 

  • 初版(昭和25年)から4訂まではI.U表示

 

 

 

  • 5訂以降は「レチノール活性当量」表示

 

 

Wikipediaの日本食品標準成分表の改訂の歴史を調べたところ、4訂は昭和57年からでした。

 

 

平成12年が5訂ですから、4訂が使われていた平成11年までがIU表示でしょう。

 

 

 

Wikipedia 日本食品標準成分表

 

 

 

で、もう一度最初の表の「人参のビタミンA」を見てみます。

 

 

 

ちなみに、この表は「科学技術庁 食品成分分析調査 mg/100g」とあります。

 

「科学技術庁」とは、1956年~2001年までに存在した日本の中央省庁の1つで、現在は廃止されて業務は「文部科学省」に継承されました。だからこの表は文部科学省発行の「日本食品標準成分表」とイコールです。

 

 

 

 

 

 

昭和26年と、昭和57年を見て下さい。

 

 

 

昭和26年もIU表示、昭和57年もIU表示...ということになりますが、やはり、13500から4100に減っています。

 

 

 

昭和26年(13500I.U )→  昭和57年(4100I.U)

 

 

 

 

 

次は平成14年を見て下さい。

 

 

 

 

この表にある平成14年は、5訂なのでIU表示ではありません。なので、人参のビタミンAの単位はμgです。これが1400μgになります。

 

 

 

 

そして、この表には書かれていませんが、最新版の2015年版(7訂)の人参が720μgなら、同じ単位でありながら、やはり減っていることになりませんか。

 

 

 

 

平成14年(1400μg)→ 平成27年(720μg)

 

 

 

 

 

「初版」と「最新版」を比較すれば、確かに単位は変わっています。それは間違いではないです。

 

 

 

 

しかし、同じ単位が使われていた年代同士を比較しても数値が減っているのも事実です。

 

 

 

 

従って、「単位が変わったから減った」では説明がつかないので、「勘違い」で片づけるべきではありません。

 

 

 

 

 

ちなみに、脂溶性のビタミンは「I.U」が使われていますが、それ以外のビタミンやミネラルは「mg」が普通に使われています。

 

 

 

 

鉄は「mg」ですから、単位は変わっていないはずです。

 

 

 

 

で、人参の鉄分の量はというと、

 

 

 

 

 

 

2 (昭和26年)

0.8(昭和57年)

0.2(平成14年)

 

 

 

 

 

...減っています。

 

 

 

こちらも単位の変化による勘違い等ではありません。

 

 

 

 

勘違いだったから、栄養はサプリメントではなく食材から...というのは無理があります。

 

 

 

 

 

次は、「化学肥料の使い過ぎ」「栄養を犠牲にした品種が増えている」「旬の時期を外れた栄養不足の野菜が出回るようになった」...といった話が本当なのか別の視点から考えてみます。

 

 

 

ビタミンやミネラルが不足した野菜や果物は味や調理にも影響していたへ続く

 

 

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