教育と洗脳は紙一重、確認をしなければどんな学問もただの信仰である

日本人は、神社仏閣には行くので、完璧な無宗教とは言えませんが、宗教アレルギーの人が多いです。

 

 

教祖に洗脳されて、思考停止になり、正常な判断を無くし、高額なお金を払う・・・そんなイメージがあるからでしょう。

 

 

でも、学問に対してそれと同じような状況になってしまっています。医学や栄養学に対し多くの人は、

 

 

 

権威、定説、に洗脳されて、思考停止になり、正常な判断を無くし、高額なお金と時間と健康を失っています。

 

 

 

「ブドウ糖は脳の唯一のエネルギー」と権威や定説が言えば、「ケトン体も使える」と無名な誰かが論証つきで述べても、多くの人は耳を傾けようとしません。

 

 

 

権威や定説を信仰しているからです。

 

 

本人は学問の意見に従っているので「頭を使っている」つもりですが、完全に思考停止です。検証もしません。

 

 

 

こう言うと「学問は宗教ではない」と反発されるかもしれません。

 

 

でも、取り組む姿勢によっては、洗脳と信仰になる危険性がです。しかも、表向きは宗教ではなく、あくまで「学問」です。そのため、洗脳されているにも関わらず、本人は考えているつもりなので、洗脳されていることに全く気が付きません。

 

 

そうなってしまったら、学問は宗教と変わりません。しかも、本人が「考えている」つもりになっている分、洗脳の完成度は高いと思います。

 

 

 

権威が言うなら大丈夫だろ」と、「教祖が言うなら大丈夫だろ」の、何が違うのでしょうか。

 

論文に書いてあるから正しいだろ」と、「教典に書いてあるから正しいだろ」の、何が違うのでしょうか。

 

 

「学問の場合はきちんと検証して発表されている」と思う人もいるかもしれませんが、もしそれがデタラメならどうしますか。それは「権威や論文が善意の元に存在している」という考えに依存しています。

 

 

思い込んで、真実かどうか確認しないのはよくありません。

 

 

何故こんな話をするのかというと、正統派の意見を盲目的に信じる人があまりにも多いからです。

 

 

そんな私は、学問というものを信じていません。

 

 

もちろん、最初からそうだったわけではありません。今でこそこんな事を書いていますが、ほんの数年前まで、

 

 

日本は平和な国だし、世間の厳しい目があるから発展途上国のような不正もない、さらに、学問、研究は真面目に行なわれ、本当に優れた人に権威のある賞が与えられている

 

 

・・・と本気で思っていました。もし、このブログを5年前に書いていたなら、このような記事は書かなかったでしょうし、これまでの記事も全く違った意見になっていたと思います。

 

 

でも今は、学問も、その土台である社会全体も、見え方が昔とはまるで違います。一番の違いは「性善説で物事を見るのを止めたこと」です。

 

 

 

以前は、この理論は、誰かが真面目に導きだしたものだから間違いないだろうと思っていましたが、

 

今は、学問には嘘が多いので、誰かが捏造した理論を勉強している可能性があると常に思っています。

 

 

 

でも、健康について記事を書いていると、体の中で起こる反応について説明する時は、教科書に書いてあるような話もしなければならない時があります。すると、どうしても医学、栄養学…と、学問の世界に足を踏み入れることになります。

 

 

正直いうと、自分で体験したこと、確認できること、辻褄が合う事は堂々と書いていますが、自分が確認できない、目に見えない世界について説明する時は疑って書いています。これまでも嘘が多かったので、また同じような事があっても不思議ではないと思うからです。

 

 

 

今後、専門的な説明をする事があれば、今回の話を思い出していただければと思います。私は学問に対して半信半疑です。

 

 

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歴史の隠蔽

 

 

 

医学や栄養学の間違いが指摘されても、多くの専門家は無視を決め込んでいます。それは、これまでも話してきました。

 

 

でも、普通に生活している人は、「専門家は真面目に働いているに違いない」と思っているので、こんな話をしても、信じられないと思います。

 

 

「真実を見て見ぬフリをする」というのは、一種の不正ですからね。社会的な地位のある人達が、どいつもこいつも、そんな態度を取る・・・というと、現実感がありません。

 

 

でも、もう少し俯瞰で見ると、そういう話は多いのです。

 

 

 

それも、医学や、栄養学に限った話ではありません。まず、その話をします。

 

 

 

もう何年も前の話です。

 

ある町で、古代の遺跡がたくさん見つかりました。その遺跡は1万年以上も前のものということで、当時、その町では大騒ぎになり、観光に使える・・・とちょっとしたブームになりました。

 

 

しかし、賑わったのもつかの間でした。

 

 

その遺跡を大学が調べた結果、「遺跡ではない」と片づけられ、無かった事にされてしまいました。

 

 

何故、無かったことになったのかというと、一万年以上前と言われていたその遺跡の情報は、その後作られた「その町の歴史をしるした書物」には全く記載されなかったからです。

 

 

歴史的な何かが見つかった事実も書いていなければ、「〇〇が見つかって、研究されているが、詳しい事はわかっていない」とかの記載もありません。一時とはいえ、大騒ぎになったのに・・・です。

 

 

全くの無視です。

 

 

大学が調査し「遺跡ではない自然の石」と判断したからなのか、騒いでいた人達からも、歴史からも忘れ去られてしまいました。

 

 

 

「じゃあしょうがないだろ」と思うかもしれません。

 

 

 

 

 

でも、確かに自然と片づけられる形のものもあったのですが、その中の一つは、人間が作らないとできない細工があったのです。「装飾に見える」ではなく、装飾です。

 

 

よくある、丸が三つならんで、それが顔に見えるとか、そんなんじゃないです。誰が見ても、100人中100人が、「これは自然にはありえない」と言うレベルの加工です。

 

 

自然だと言い張れば、「気が狂っている」といわれても仕方が無いです。でも、そんな気が狂った判断を、大学がしたのです。

 

 

で、その言い訳が酷い。

 

 

 

その辺り一帯は、昔は海底だった

水位が下がった時に岩石が表れた

太陽の熱と夜間の冷えの繰り返しで岩にヒビが入り、人が作ったみたいに見える

 

 

 

 

というもの。よくもこんな屁理屈がいえるものだなと関心してしまいます。

 

 

普通の人はここで、「大学がそう言うならしょうがないか」と終わらせるかもしれませんが、さすがに無理がありました。

 

 

嘘です。

 

 

この話から分かったことは、どんな嘘にも、もっともらしい理屈はつけられるということです。

 

 

 

 

こういう話が一度や二度であれば、ただの残念な話で終わりますが、日本全体、世界を見わたせば、他にも似たような話はあります。場所、遺跡の種類は違えど、発見からその後にいたるまでの経過が共通しています。

 

 

 

 

 

それまでの歴史を覆すような発見がある

専門機関が調査

過小評価

発見などなかったかのように忘れられる

定説のまま

 

 

この流れです。一件、一件を「全く違う話」だと思えば気付かないかもしれませんが、似たような話を見比べてみると、明らかに、何かおかしいのです。正常な人は違和感を感じるはずです。でも、

 

 

「専門家が言うのだから、素人には理解できないような、複雑で専門的な理由があるのだろう。それを理解できない素人がバカだ。」

 

 

そう頭を抱えてしまう人もいるかもしれません。しかし、その理論が真実なのかどうか疑ってみる必要があります。

 

 

子供でも「自然にできるのはありえない」と思える石を、自然のものにする理論を作ることがあるのですから、要注意です。

 

 

 

 

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専門家の仕事

 

 

 

調査にはコストかかるはずです。わざわざ現場に行き、バカな結論を出す。しかも、「自然のものだ」といって、議論をスパッと切ってしまうわけです。その後の調査もありません。

 

 

 

調査した人達はなにをやってんだ?って話です。大学の存在意義はないと思いませんか?何の為に学問のトップに君臨しているのか。

 

 

 

ここで、

 

 

 

頭の良い人達が、日夜、真剣に研究しているハズのに、なんでこんなバカなことを言うんだろう

 

 

・・・と、性善説に当てはめて考えていたら絶対に答えは出ません。ですが、前提を変えるとすぐに解決します。

 

 

 

大学は調査するところではなく、事実を隠蔽するところ

 

 

 

こう考えると整合性がとれます。どんなに頭が良くても、バカな事を言うでしょう。

 

 

考えてみてください。本物のバカなら、大学入学どころか高校も卒業できません。もし、本当にバカな結論を大真面目に語っているのなら、幼稚園からやりなおしてもらいたいです。

 

 

さらに、似たような話を見聞きして、毎回決まったパターンになる様子を見て、これは明らかに、どこかから否定するように指令が降りていると感じるようになりました。

 

 

もちろん、大学は表向きには真面目な機関ですから、そんな風には見えませんが、やっていることを見ていると明らかにそういうところです。これは、歴史だけじゃなく、医学、栄養学、その他の学問にもいえることです。これを、

 

 

大学は頭のいい人達が真面目に調査、研究しているところである

 

 

と思っていたら、高学歴の人間が、明らかに人工の装飾がされている石を「自然のもの」と主張しているのを聞いて、悩まなければいけません。

 

性善説で考える人は、「もしかして、自然の石に見えない私がバカなんだろうか?」と真剣に悩み続けるでしょう。学問だけに首をつっこむと、こういう背景が見えなくなります。

 

 

 

正常ですから、気をしっかり持ちましょう。

 

ここで石に見えるように洗脳されてはいけません。「大学は事実を隠蔽する機関」とすれば、そこで頭を抱える必要はありません。

 

 

(追記)「専門家は真面目に研究しているに違いない」と思うと、幼稚なトリックにも騙されてしまいます。コレステロールのインチキが言い例です。

科学や論文のインチキはコレステロールが教えてくれる

 

 

 

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無駄に複雑な理論は要注意

 

 

今の世の中、物事をより複雑に語る人が、頭が良い、偉い・・・という風潮があります。

 

 

どんな分野も、上に行くほど、専門的になればなるほど、複雑難解で誰も理解できないようになっています。

 

 

昔は、そういうのが凄いと思っていましたが、今となってみれば、その複雑さは、真実に根ざしたものなのかどうか疑ってしまいます。

 

 

私は、真実はシンプルに語ることができると思っています。シンプルに語れないものは、あまり信用していません。

 

 

嘘をつく場合、騙す相手がバカなら、一言二言の嘘でも騙せるかもしれませんが、標準的な知能を持った人間を騙すとなると、やましいことを、やましくないように見せかけないといけない為、多少話を複雑にする必要がでてきます。

 

 

そして、嘘がばれないように、さらに嘘を重ねます。

 

 

 

そうすることで、話がどんどん複雑になっていきます。当然、嘘をつけばつくほど、シンプルから遠ざかります。

 

 

 

物事を無駄に複雑にする・・・相手に真実を教えない為の方法でもあります。複雑難解にして、誰も理解できない構造にしておけば、真実を追究する人間を煙に巻くことができます。

 

 

 

 

例えば、遺跡を見て、「人の手で作った物だ」と素直に認めれば答えはシンプルですが、

 

 

 

明らかに人工の装飾があるものを、自然のものであるように思い込ませるには、巧妙な屁理屈を考える必要があるので、一言二言では表せません。

 

 

誰も確かめることができない物語を考えたり、馴染みのない記号を使ったり、聞いた事がないような専門用語を使って、相手を思考停止させ、深入りさせないようにします。

 

 

 

 

そして、真実ではない反対の方向に誘導する理屈も考えます。

 

 

どんな嘘でも盲目的に信じ込む人、積極的に洗脳にされてくれる人だけがその学問に染まることができます。

 

 

 

学問に精通している人に失礼な言い方かもしれませんが、定説を覆す真実が見つかったのにも関わらず、頑なに真実を見て見ぬフリをする姿勢を取られると、そう思うしかありません。

 

 

 

 

 

普通の人間の感覚では、嘘をつき続けることは恥ずかしいことです。恥も外聞もなく、それでも嘘をつき続けるのは、嘘をつくことが目的だからとしか考えられません。

 

 

インチキなストーリーですから、化けの皮が剥がれますが、元々の目的が嘘をつくことなので、何を言われようとも、そのストーリーは意地でも変えません。嘘を正当化する為、新たなストーリーを考えることもあります。

 

 

そうしているうちに、だんだん話がややこしくなってくるわけです。複雑難解、何故か専門家の意見が真っ二つに割れる。考えれば考える程頭が混乱してきます。でも、そのこと自体がおかしいと気付くべきなのです。

 

 

学問は、悪意があれば、事実をないことにしたり、存在しないものをあることにして、世の中を騙すことが可能です。

 

 

 

●存在しているものを、なかった事にするために、理論を作る

 

●存在しないものを、あるように見せかけるために、理論を作る

 

 

言う方も言う方ですが、信じる方も信じる方です。私は、人工的なものを無理矢理自然の石にしてしまう学問、それに疑問をもたない人達をみると、一種の宗教に見えます。思考ではなく信仰です。

 

 

 

 

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確認できないものに対しては慎重になる

 

 

先日、「ATP」と、「エネルギー代謝」についての記事を書きました。

 

 

ATP(アデノシン三リン酸)について分かりやすく説明してみた

 

エネルギー代謝について分かりやすく説明してみた

 

 

 

これを読まれた方はお気付きだと思いますが、生化学的な話をしているにも関わらず、私は、化学式や、専門用語などはほとんど説明に使っていません。

 

 

 

何故、そういう形をとるかというと、複雑難解にして、小難しく語るのが嫌いというのもありますが、確認できない存在に対して慎重だからです。複雑な数式を見るたびに、「こんな世界が本当に存在しているのか」と思ってしまいます。

 

 

理系の人から怒られそうですが、文系である「歴史」に嘘が多いように、理系である「科学」に嘘があってもおかしくはないと考えています。

 

 

 

いやいや、そんな事を言っていたら先へ進まない、・・・そう思って勉強するのですが、調べていると、たまたま見たページに間違いが書かれてあるのを見つけたりします。

 

 

例えば、「ブドウ糖は脳の唯一のエネルギー源」とか、堂々と書いてあるわけです。そういうのを読むと、「この学問大丈夫か?」と思ってしまいます。

 

 

 

私は間違いに腹は立ちませんが、間違いを頑なに訂正しない姿には不審感を覚えます。

 

 

「他にも嘘があるんじゃないか」「学習者を騙そうとしているのでは」・・・と思うようになります。ですが、どれが嘘でどれが本当かは、目に見えない世界なのでわかりません。

 

 

「ブドウ糖は脳の唯一のエネルギー源」・・・程度の嘘なら、「ケトン体」を利用することで、簡単にその嘘を証明できます。ですが、このように、自分の体験を通して確認できる事象は限られています。

 

 

 

分子や原子など、本物を見ることは出来ません。画像検索をかけても、イラストばっかりです。CGのような写真があったり、なかったりです。

 

 

本物は簡単には見れないということです。

 

 

 

「見れる立場にいる人が存在を確認しているんだから間違いない」

 

 

 

と思う方もいるかもしれませんが、私はそういう人を信用していません。過去の記事でも書きましたが、「優秀な人」と「善人」であることはイコールではないのです。

 

 

遺伝子組み換え食品から学んだ、学問に不毛な議論が発生する本当の理由

 

遺跡の話を思い出してもらったらわかると思いますが、学問に携る人間がと言ったら、白いものも黒にできるのです。この人達が嘘をついていたら終わりなわけです。この人達の人間性に依存することになります。

 

 

 

また、遺跡等、「肉眼で確認できるような事」でも嘘をつく人がいるのですから、「目に見えない世界の事」に嘘をつく人がいても不思議ではないと思いませんか。

 

 

 

それに、ナチス・ドイツの宣伝大臣だったゲッべルスは次のように述べています。

 

 

 

 

確かめないやつは必ず騙せる。

 

 

 

『Wikipedia ヨーゼフ・ゲッベルス』より引用

 

 

 

 

確かめるがない場合も、必ず騙せるでしょうね。

 

 

 

ここで、誤解のないように言っておきますが、私は目に見えないものを信じていないのではありません。

 

 

そうではなく、目に見えない事をいいことに、嘘をつく輩がいるから信用できないと言っているのです。

 

 

 

信用できる情報の条件

 

 

世の中は嘘が多いわけですが、そんな中、「まぁ、信じてもいいかな」と思う情報もあります。それは、以下の条件です。

 

 

 

① 理路整然としていて、辻褄が合う理論であること

 

② 情報発信者が誠実である(地位、知名度、人数は関係ない)

 

③ 行動と①が噛み合う

 

 

 

この3つは重要視しています。

 

 

私は糖質制限を実践している医療関係者の話に耳を傾けています。それは、理論に整合性があることと、現場の体験を重要視されているからです。

 

 

心根のキレイな医療関係者の観察のもと、多くの患者が結果をだしたのなら、「試してみようかな…」という気になれます。

 

 

で、徳の高く頭の切れる医療関係者が考え、調べ、実践し、発信している情報を、吟味して実践し、その結果をこうしてブログで発信しているというわけです。

 

 

理論と実践、この2つがかみ合えば良い。かみ合わなければ、要注意です。

 

 

●理論を実践して、その通りにならなかったら、それは理論が間違っている可能性が高い。

 

●理論を実践して、その通りになるなら、その理論は正しい可能性が高い。

 

 

 

 

当然、理論そのものが「おかしい」と感じるものは信じません。

 

私は過去に「進化論を信じていない」と言いましたが、あれなど正にそうです。

 

 

人の食性を考える時、チンパンジーを参考にしてはいけない理由【前編】

 

 

人の食性を考える時、チンパンジーを参考にしてはいけない理由【後編】

 

 

 

 

 

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警戒してしまう情報

 

 

反対に、「胡散臭い」と感じる要素を挙げてみます。

 

 

 

●話が無駄に複雑

 

●枝葉の情報は十分すぎるのに、肝心な所は「まだわかっていない」とはぐらかす

 

●考えれば考えるほど頭が混乱して、何が真実かわからなくなる

 

●専門家の意見が真っ二つに割れている

 

●理論を真面目に実行したのに結果が違う

 

 

 

これらの特徴が見られた場合、私はその理論を警戒します。特に、考えれば考えるほど頭が混乱して何が真実かわからなくなる理論は要注意です。理論に嘘が混じっている場合、そうなります。

 

 

勉強をすればするほどわけが分からなくなるというのは、そもそも、学んでいる事がデタラメである可能性があります。

 

 

誰かが誰かの利益の為に嘘をつき、主張しあっているから、理論が支離滅裂になって全くかみ合わないのです。例えば放射能、

 

 

「プルトニウムは危険」と言う人がいたり、方や「プルトニウムは飲んでも大丈夫」という人がいたり・・・

 

 

反対のことを主張し合っています。とても同じ対象について述べているとは思えません。読書感想文じゃないんですから。

 

 

とにかく、どんな分野であれ、このような支離滅裂な理論に遭遇したら、誰かが意図的に嘘をついているかもしれないので、一歩引いて考える必要があります。

 

 

まともにとりあっていたら、頭が混乱するだけです。嘘つきに真面目に返していたら疲弊します。

 

 

そして、一番ダメなのは、納得できないのに「そういうもんだ」と納得してしまうことです。それは信仰です。

 

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実践せずに批判する人達

 

 

批判する人が実践しないのは理由があります。

 

 

私は糖質制限を始めてから、先駆者の本を何冊も読んできました。著者は医療関係者ですが、やはり、糖質制限を実践されている方は、自身のコツコツ行なってきた治療(事実起こったこと)を重視されています。

 

 

しかし、それを公に公表すると、風当たりは強いみたいです。常識と逆の事を言えば、反発が来るのはよくあることですから、それだけなら別に気にしません。

 

 

でも、アンチにはおもしろい特徴があります。

 

 

●実際に実践して失敗した素人のアンチ

 

●批判はするが、絶対に実践しない専門家のアンチ。

 

 

 

前者は、「糖質制限について勉強不足の状態で実践して失敗する」というケースです。私もこれに該当してました。失敗は自分の不注意なのですが、一応、実践はしているので、文句を言ってしまうのは分かります。

 

 

 

ですが、問題は後者です。専門家のアンチは、批判はするが実践しないのです。

 

 

これが私が読んだ本、ネット、どちらにも共通してみられる流れです。

 

 

不自然です。

 

さすがに、頑張って導き出した説を、実践もしないで否定されたら腹が立つのでしょう。「実践して批判しろ!」的な返しをされているんですね。

 

 

「何故、実践しもしないで、批判してくるのか理解に苦しむ」・・・といった心情が文面から伺えます。

 

 

でも、そうじゃないんですね。

 

 

性善説で物事をとらえられているからなのか、こういう考えになったのでしょう。

 

医療関係者同士では、言いにくいでしょうから、私がその理由を教えます。

 

 

彼ら実践しないで反対している人達は、真面目に医療について考えて批判しているわけではありません。そうではなく、「否定しろ」という指令を遂行しているだけです。

 

 

否定するのがお仕事ですから、実践するわけありません。

 

 

本気で医療のことを考えていたら、もうすでに結果をだしている医師がいるなら、真似をしない理由がありません。

 

 

 

もう一度言います。

 

 

彼らは最初から否定することが目的です。だから、どんなに「実践してから反論してくれ」と言われても、実践もしないし、素人でも論破できるようなバカげた屁理屈で押さえ込もうとします。

 

 

理論が破綻していようが、自分の品格が落ちようが、関係ありません。潰すのが目的ですから、否定できれば何でもいいのです。

 

 

遺跡を自然石とした大学のように。

 

 

性善説で捕らえてはいけません。そうしている限り、「何故、実践せずに反論してくるんだ?」と悩むはめになります。

 

 

逆に、真実を知っているからこそ、実践しないのかもしれません。

 

 

実践なんてしてしまったら、正しさを証明してしまうことに繋がります。それは、従来の説を覆すことにつながります。つまり、ご主人様に顔向けできないのです。

 

 

実践したら、事象は間違いなく起こる・・・それを知っているからこそ、実践しない、できないのです。だから、口だけで否定します。

 

 

 

教育と洗脳

 

 

学問の実態がこれですから、知識を詰め込む勉強は洗脳に等しいと言えるでしょう。

 

常に疑い、確認できることは確認するようにしないと、騙されていることに気づかないように騙されてしまいます。

 

私はそういう事を考えながら記事を書いています。

 

 

 
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コメント

    • なかの
    • 2017年 7月 22日

    先日は丁寧なご返信をありがとうございました。
    かなり気負っていたのですが、アリヤさんの真実を探すのを楽しんでいらっしゃる様子に気が楽になりました。

    この記事をよんで、自分の信じられるものを主体的に探すことの重要性を感じました。

    そこで、最近統計を学んだので現在の医学の基準の信頼性について少し調べてみました。

    医療系の論文では、ある病気とその原因と疑われるものの関係を調査するなどのために統計が使われています。
    こういった調査を行う際には「回帰分析」で決定係数という数値を求めることがよく行われます。http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n1997dir/n2265dir/n2265_11.htm

    決定係数は0~1の間をとり、1に近ければ近いほど「疑われている原因がその現象の原因である」と解釈することができます。また、0.5〜0.6未満の場合は「疑われている原因がその現象の原因である」ということへの信頼性はとても低くなります。

    しかし、多くの論文では決定係数が明記されていません…
    この論文↓の調査に使用したほとんどの医療統計論文の決定係数は、0.05~0.3の範囲にとどまり、、このことから決定係数が0.3より大きくなることはとても少ないと考えられます。
    Iezzoni LI, Ash AS, Coffman GA, et al. Predicting in-hospital mortality. A comparison of severity measurement approaches.

    これが他の調査でも当てはまるなら、ほとんどの医療論文の統計結果の信頼性はかなり低いことになります。

    いろいろな大人の事情を考慮すれば、それらの決定係数は隠蔽されている可能性も考えてしまいます。

    「普通」だと思っていたことも、その常識の外部の人間の視点からみると「おかしな」ことになることもある。

    普通ってすごく主観的なものだと感じました。立ち位置が変わると、いとも簡単に「普通」の概念は崩れる。
    自分が普通だと思っていることを一度疑って確認すること。

    肝に銘じておこうとおもいます。

      • アリヤ
      • 2017年 7月 23日

      なかのさんへ

      こちらこそ、いつもコメントして下さって有難うございます。

      統計の話ですが、ごめんなさい、なかのさんの説明は分かりやすかったのですが、リンク先の記事は私にはかなり難しいです。よく分かっていないことを適当に答えるわけにはいかないので、分かる範囲でコメントさせて下さい。

      >決定係数は0~1の間をとり、1に近ければ近いほど「疑われている原因がその現象の原因である」と解釈することができます。また、0.5~0.6未満の場合は「疑われている原因がその現象の原因である」ということへの信頼性はとても低くなります。しかし、多くの論文では決定係数が明記されていません…

      「信頼できる情報か、そうでないか」をハッキリさせる為に「決定係数」は示す必要がある。そして、1に近い数字を元に組み立てられた理論程信憑性がある・・・ということでしょうか。

      >この論文↓の調査に使用したほとんどの医療統計論文の決定係数は、0.05~0.3の範囲にとどまり、、このことから決定係数が0.3より大きくなることはとても少ないと考えられます。
      Iezzoni LI, Ash AS, Coffman GA, et al. Predicting in-hospital mortality. A comparison of severity measurement approaches.
      これが他の調査でも当てはまるなら、ほとんどの医療論文の統計結果の信頼性はかなり低いことになります。

      これはつまり、「信頼性がない、低い情報」を元に、多くの論文は書かれている可能性がある・・・ということでしょうか。

      とすると、「論文は原因を突き止める為に存在しているのではない」ように思えてきます。別の目的があるのかもしれません。

      「原因の解明の為」に取り組んでいるにしては、熱がこもっていないというか、適当な感じがします。決定係数を明記しない事といい、信頼性の低い統計結果を根拠にすることといい、本気さが感じられません。

      改めて思い返してみると、

      「糖質とタンパク質と脂質」を一緒に食べ続けて病気になった人を持ち出して、肉食は危険だと言ったり(※タンパク質と脂質だけ食べ続けている人のデータはない)、
      【脂質+タンパク質】は良くて【糖質+脂質+タンパク質】が良くない理由

      悪い結果が出るまでに研究を終了し、そこまでのデータを元に「遺伝子組み換え食品」は安全だとしたり(※日にちを延ばした研究をしたら、腫瘍ができた)、

      ・・・こんなバカっぽい話ばっかりです。コントです!

      どちらも、「どうでもいい結果」を持ち出してきて、「危険だ」「安全だ」と訴えるわけですが、インチキな根拠を取り繕うようなこともしません。

      その様子から、「危険」とか「安全」とか、先に都合のいい発表ありきで、それを裏づける論文は建前で存在していればいい、どうせ中身を確認する人は少ないんだから・・・と言いたいようにも見えます。

      医療の世界は、どの病気でも「原因を明かしたくない」「原因を煙に巻く」という傾向があります。

      本音がそれだから「原因さえ誤魔化すことができれば」、信頼性が低かろうが、肝心の数値が記載してなかろうがお構いなしなのかもしれません。気付かない人、流される人、確かめない人が多いですから。

      >普通ってすごく主観的なものだと感じました。立ち位置が変わると、いとも簡単に「普通」の概念は崩れる。

      >アリヤさんの真実を探すのを楽しんでいらっしゃる様子に気が楽になりました。

      最初は崩れにくいですが、一度崩れ始めると崩壊は早いです。ドラマや映画よりずっと楽しいですよ。

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